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北宋梅堯臣 「銅雀硯詩」
梅堯臣(ばいぎょうしん:1002〜1060)は欧陽脩(おうようしゅう:1007〜1073)や蘇洵(そじゅん:1009〜1066)と同世代で、すなわち蘇軾(1036〜1101)や蘇轍(1039〜1112)、黄庭堅(1045〜1105)等の父親世代である。北宋初期の著名な政治官僚であり、詩文も名高かった。彼が欧陽脩とともに北宋文学を古文復古へ方向づけた功績は大きい。北宋時代においては、南唐文化を継承した文房四寶の趣味性が高度な洗練を見せる。梅堯臣は欧陽脩とともに、その先鞭を担ったとみて良いだろう。彼が「銅雀台瓦硯」についてうたった「銅雀硯」がある。

銅雀台は三国時代の曹操が建設した、高楼を有した豪壮な邸宅である。その規模と機能からすると、巨大な城塞ともいうべき建築物である。戦国春秋時代の斉の都「邯鄲」に近く、現在の河北省臨漳県に位置する。この台は曹操の死後、魏の滅亡後も保存されていたようだ。後の北斉の時代には大修復され、名を金凰台と改められた。のち唐代に至って旧の銅雀台に戻されたと言われる。しかしさすがに唐末の河北の戦乱には堪え得ず、五代十国を経て北宋初期には相当に興廃していたようだが、その遺跡を訪ねることは可能であった。銅雀台を尋ね、瓦を掘り起こして硯に仕立てることが、一部の士大夫の間で流行を見た。粘土を焼成した瓦は、硯面を平らに作れば硯として使用できないこともない。陶硯や澄泥硯と同様、人造の硯材とみることができる。

瓦硯は実際に瓦を用いて作られた硯の他にも、歙州石や端溪石などの天然の硯材を、瓦硯に似せて作硯する様式が生まれた。銅雀台の屋根には、半円筒のいわゆる”瓦筒”が使われていたのであろう。半円筒に成形された硯材の頂部に楕円形の墨堂を築き、墨池を穿った形のものが多い。瓦で作った「本当の」瓦硯と区別して、石の硯材に施される作硯様式は、特に瓦筒硯様式と呼ばれる。

詩の全文は以下の通り。

歌舞人已死,台殿棟已傾。
旧基生黒棘,古瓦埋深耕。
玉質先骨朽,松棟為埃軽。
築緊風雨剥,埏和鉛膏精。
不作鴛鴦飛,乃有科斗情。
磨失沙礫粗,扣知金石声。
初求畎畝下,遂厠几席清。
入用固為貴,論古莫與并。
端渓割紫云,空負世上名。
韓著毛穎伝,何独称陶泓。
儻以較歳年,泓当視如兄。

一応、書き下してみる。

歌舞の人は已(すで)に死,台殿の棟(むね)は已に傾く。
旧基には黒棘(こくし)が生じ、古瓦は深耕(しんこう)に埋まる。
玉質は先んじて骨朽し,松の棟は埃軽(じんけい)を為す。
築緊(ちくきん)は風雨に剥がれ,埏は鉛膏(えんこう)の精に和す。
鴛鴦(えんおう)の飛ぶを作らず,乃(すな)ち科斗(かと)の情を有す。
磨すれば沙礫(されき)の粗(そ)を失し,扣(たた)けば金石(きんせき)の声を知る。
初めて畎畝(けんぽ)の下に求め,遂(つい)に几席(きせき)の清に厠(はべ)る。
用に入るに固より貴と為す,古(ふる)きを論ずるに并(なら)ぶる莫(な)し。
端渓(たんけい)は紫雲(しうん)を割ると,空しく世上に名を負う。
韓は毛穎(もうえい)の伝を著(あらわ)し,何(なん)ぞ独(ひと)り陶泓(とうこう)を称(しょう)さん
儻(も)し以って歳年を較せば,泓(こう)は当(ま)さに兄の如く視るべし。

まず、

歌舞人已死,台殿棟已傾。

とある。ここはわかりやすいだろう。「歌舞の人」とは、歌い舞う人、すなわち銅雀台に集められた美妓達である。彼女たちもみな死んでしまい、「台殿棟」すなわち建物のすべても、すでに傾いてしまった、ということである。

旧基生黒棘,古瓦埋深耕。

「旧基」は、建物の遺構。「黒棘」は黒い棘の生えた植物。そして「古瓦」が、「深耕」に埋まってしまっている、ということである。「深耕」は田畑を深く耕すことであるが、銅雀台の跡地の周辺も耕作地になり果ててしまい、その屋根瓦も畠の中に埋まってしまっている、ということである。ひとつには耕作地の区画や畦道づくりなどに、銅雀台の礎石や瓦が使用されてしまったことを言っているのかもしれない。

玉質先骨朽,松棟為埃軽。

「玉質」は玉の材料、あるいは玉のようなつややかで滑らかな材質感をいう。あるいは白くなめらかな肌を言い、美女の形容に使われる。「骨朽」は朽ちた骨のことである。すなわち一句目の「歌舞の人=美女」を受けて、やはり銅雀台に曹操が集めた美女達のことであろう。彼女達もとっくに死んでその骨も朽ち果ててしまっている、ということである。
「松棟(しょうとう)」は、華美な家屋。これは二句目の「台殿」を受けている。次の「埃輕」という言葉は詩語にみあたらないが、ここはおそらく「輕埃(けいあい)」。「輕埃」は舞い立つような軽い埃(ほこり)で、宋祁(998〜1061)の「病興見春物欣盛釈然有臨眺之意」には「東風掠野暫軽埃」とある。すなわち贅美を尽くした広壮な殿舎も朽ち果て、今や廃材が砂埃をかぶっている、というところである。
「埃輕→輕埃」と、文字の逆転が行われたのは、押韻の為であろう。すなわちこの詩は偶数句の末尾が押韻している。北宋の”マンダリン(官語)”の発音と現代の普通語の発音は同じではないが、参考までにピン音で示せば、
傾(qīng)耕(gēng)輕(qīng)精(jīng)情(qíng)声(shēng)清(qīng)并(bìng)名(míng)泓(hóng)兄(xiōng)となる。厳密ではないが、一応は(ng)で音が終わり、調子は悪くない。あるいは宋代の官語ではもっと声調が良かったかもしれない。特に傾(qīng)、輕(qīng)、情(qíng)、清(qīng)の四字までは、一字飛ばしで完全に音が一致している。「輕埃」は輕(qīng)埃(āi)であるから、これを逆転しないと埃(āi)が入ってぶち壊しである。逆にしても、ここは意味は通る。

「築緊(ちくきん)」は現在もつかわれる語であるが、「緊密に築かれた」建造物、すなわち堅牢な建物である。それが風雨にさらされて倒壊してしまっている、ということである。「剥」には「剥(は)ぐ」という意味のほかに、脱落、衰微、という意味がある。
「埏(えん)」は土と水を混ぜることで、すなわち泥、粘土である。特に陶磁器を作る泥土、あるいは陶磁器を作ることもいう。「鉛膏」は白粉(おしろい)、化粧である。この白粉は、銅雀台に集められた美女、美妓達に由来するものであろう。「精」はスピリットであるが、白粉のスピリットが「埏」に和す、というのだから、美女たちのスピリットが泥土に埋もれてしまっていることを言っている。
しかし前の二句で「玉質は先んじて骨朽し,松の棟は埃軽(じんけい)を為す。」と言い、やはり美女達が朽ちはて、建物が倒壊した様をうたっているから、少しシツコイ感じがするのだが、ここでの「埏」は陶磁器、すなわち銅雀台の瓦を暗示すると読むことができる。「玉質」が「骨朽」したのは、瓦の釉(うわぐすり)の艶が土の中ではげ落ちてしまったこと、また美女たちの白粉がそこにしみこんでいる、ということを言うのであろう。そう読むと、次の二句に意味がつながるのである。すなわち、

不作鴛鴦飛,乃有科斗情。

なのであるが、「鴛鴦(えんおう)」はいうまでもなくオシドリのこと。鴛鴦瓦は中国の伝統的な屋根瓦の組み方で、一枚ごとに仰臥をくりかえす格好に組む。白居易の「長恨歌」にある有名な両句に「鴛鴦瓦冷霜華重、翡翠衾寒誰與共」とある。「鴛鴦の瓦は冷ややかにして霜華(そうか)重く、翡翠の衾(ふすま)は寒(さむ)く誰れか共にかせん」。つまりは銅雀台の瓦は、そのような夫婦を暗示する格好には組んでいない、ということである。
「科斗(かと)」はオタマジャクシのことであるが、狭義には篆書が変化した「科斗文」と呼ばれる書体を指す。適当な画像がないのだが、簡単に説明する。起筆を逆筆で入り、あっさりと出鋒して終筆すると、頭でっかちのオタマジャクシのような点画の書体になる。隷書における「蚕頭燕尾」の、燕の尾が小さく先細りになったような筆法である。しかし広義には文字、文章一般をさす。すなわち「科斗の情」とは、筆をとって文章を書くような人物、つまりは士大夫の趣味をいう。

要するに銅雀台の瓦は、”鴛鴦瓦”のように夫婦の情愛を暗示した格好ではないが、その方が文学をこととする者の心情に沿っている、ということである。前二句の、瓦に白粉が染み込んでいるという主旨の句と意味をつなげると、夫婦の情愛に惑溺するよりは、大勢の美女達と盛大に遊ぶほうが、詩文の徒の気分に合致する、ということである........なんだかなあ?と思われる方々もおられるかもしれないが、この箇所の真意は最後に付記したい。ともあれ銅雀台を建てた曹操やその一族の男性たちには、確かにそんな豪気なところがあったように思われる。次に、

磨失沙礫粗,扣知金石声。

とある。「磨」とあるが、次に「沙礫の粗を失い」とあるから、ここでは墨を磨ることではない。すなわち掘り出した瓦のざらざらの表面を研磨し、墨が磨れるように硯面を作ることであろう。
そして「扣(たた)けば知る、金石の声」は、指ではじくと金石、つまりは青銅器をたたいたような、金属性のキンキンと高く澄んだ音がする、ということである。ちなみに端溪硯や龍尾石硯も、指ではじいて音を確かめる鑑別法がある。陶磁器においては、指ではじいて高く澄んだ音がするというのは、ひとつにはその粘土が細かく、また高い温度で焼成されたことを暗示している(粘土の成分にも依存する)。ここでは銅雀台の瓦が、高い技術で焼かれた、すぐれた陶器であったことを言っている。
ちなみに澄泥硯という、焼いたレンガを材料にした硯が古くからある。これに使用する粘土は泥を何度も漉した、非常に細かいものである。硯として用を為すためには、ある種の天然石の組成の細かさに近づける必要がある。次に、

初求畎畝下,遂厠几席清。

とある。「畎畝」は畠(はたけ)の畝(うね)のことであるが、田舎という意味がある。「厠」はここではトイレのことではない。「傍」と同意の用法がある。また参与する、という意味もある。「几席」は「几(つくえ)」と「席(いす)」であり「清」は清潔であること。すなわち「明窗机淨(あかるい窓ときれいな机)」で、すなわち文房書斎のことである。

入用固為貴,論古莫與并。

「入用固為貴」は、この硯は実用的だから貴ばれるのであり、「論古」はその硯の「古(ふる)きを論じて」、「莫與并」は「並ぶものなし」ということである。すなわち単なる骨董趣味で古い瓦を硯にしたのではなく、それが実用面でも優れているから貴重とされている、ということである。しかも時代の古いことを議論しても、おそらくこれより古い由来をもつ硯はないだろう、ということである。事実、漢代にようやく硯が今の形になったと考えられる。北宋初期のこの頃、後漢以前の硯などは、確かなものはほとんど見ることができなかったであろう。

しかしここには、別の文脈が並行している。銅雀硯の擬人化が始まるところである。すなわち「畎畝」は、畠のほかにも「田舎」というほどの意味がある。また「几席清」は文房書斎であるが、これを官界とみなすこともできる。つまり地方から抜粋されて中央の官界に入った、と読めるのである。また「入用固為貴」は実務に長けた人材、というように読めるし、「論古莫與并」は、「古(いにし)えを論じて」つまり古文について議論しても抜きんでている、と読むことができる。官僚政治家として有能なだけではなく、文学者としても優れていることになるが、これは当時の士大夫の理想の資質と考えられていたのである。ここで銅雀硯を擬人化することで、後段の韓愈が毛筆を擬人化して創作した「毛穎伝」の文脈につながることになる。しかしその前に、

端渓割紫雲,空負世上名。

の両句がある。「紫雲」は、すなわち「紫雲呈瑞」で、紫の霞や雲。紫は高貴な色とされ、紫がかった霞や雲が出ることは瑞兆であるとみなされる。この「端渓割紫雲」は唐代の李賀の詩「楊生青花紫石硯歌」の中の「端州石工巧如神,踏天磨刀割紫雲」を踏まえた句である。
端溪はその石色から紫石とも称される。以下は借り物であるが、唐代の鳳池硯の例を示す。
唐代の鳳凰池硯唐代の鳳凰池硯唐代の鳳凰池硯唐代の鳳凰池硯
現在採石される端溪石に比べ、より赤味の強い紫色を呈した硯材が採石されていたことがわかる。すなわち端溪の紫石は、瑞兆である紫色の雲や霞の精華である、というほどの意味になる。以下は唐代の端溪硯(鳳池硯)。
唐代の鳳凰池硯唐代の鳳凰池硯
しかしそれが「空負世上名」というのだから、端溪の紫石も見た目ばかりで実力がなく、虚名ばかりが世間に喧伝されていると言っている。梅堯臣は、端溪に対してここではあまり高い評価を与えていない。その点は、次代の蘇軾や米芾等と見方が異なっている。
いかにやや冗長な大意を示す。

(大意)

この台で歌い舞った美しい女達は已(すで)に死に絶えてしまい,高い塔や殿屋の棟(むね)はすでに傾くいてしまった。
遺構には棘(いばら)が生え、古い屋根瓦は遺構の深い耕の中に埋もれている。
玉のようなつややかな肌をした美女達も、とっくに骨も朽ち果て、華麗な楼閣も廃材が砂埃にまみれている有様。
堅牢な屋根も積年の風雨に壊されてしまったが、この瓦の土には銅雀台に集った美女達の白粉がまだ染み込んでいるだろう。
しかしこの瓦が鴛鴦(オシドリ)のような格好に組まれていなかったのは、その方が文学者の趣味に合っているからだ。
研磨すればその表面は砂粒のような粗(あら)い感触がなくなり、滑らかに墨が下りる。扣(たた)けば青銅器を叩いたような高く澄んだ音がする。
初めは遺跡のまわりの畠の中から探し求めたが、見つけ出してとうとう書斎の文房具達の仲間に入れた。
実用の役に立つから貴重なのであるが、その由来の古いことを論じたって他に類を見ないだろう。
端渓(たんけい)は紫の尊い気から生じたのだというが、虚名が世間に喧伝されているだけだ。
唐代の韓愈(かんゆ)は毛筆を人に擬した、毛穎(もうえい)の伝記を創作した。しかしその文のなかでどうして陶器で出来た硯を擬した、陶泓(とうこう)だけを称賛したのだろうか?
もし銅雀硯と陶泓の年齢を比較すれば、なんといっても三国時代の銅雀硯は、隋唐の陶泓(とうこう)の兄貴分なのである。

ところで硯についてまとまって論じた文に、欧陽脩の「硯譜」がある。梅堯臣と同世代の親しい友人であった欧陽脩だが、かれは「硯譜」の中で第一に端溪硯を論じている。しかしそこでの評価は「いたずらに珍重されて流行している」と述べ、献上硯に充てられるが「溌墨するものは十のうち一、二もない。玩具とするのが良いのだ。」と言いきっている。また「古瓦」を使った硯についても述べ、「瓦硯は必ず溌墨するから、石の硯よりも優れている」と述べている。梅堯臣の硯の見方も、基本的には欧陽脩の見解に沿っている。どうも北宋初期の士大夫の間には、そのような質実剛健の気運があったようだ。またさらに「官吏が割れた皿を使って墨を磨っている」ことも付け加えて賞賛している。

瓦硯にせよ割れた皿にせよ、要は”廃物利用”である。”廃物利用”を推奨していることになるのだが、これはおそらく北宋初期の厳しい世情を反映しているのかもしれない。初期の北宋は、絶えず北方遼との臨戦状態にあった。1004年に遼と「澶淵(せんえん)の盟」を結んで以後100年の平和が訪れたが、1038年には西夏との紛争が起きている。西夏は手強い相手だった。この紛争が1044年に収束するまで、北宋王朝は莫大な戦費負担に苦しんだのである。蘇軾や米芾、黄庭堅等、欧陽脩の次の世代が活躍したのは、平和な新宗の時代である。世間の空気が異なっていたのだろう。
異民族からの大きな脅威を受け続けると、必然的に自国内に民族主義的気運が高まるものである。唐代に詩の絶頂期を迎えながら、前代を継承せず、後漢末を理想とする古文復古に向かった欧陽脩の文学観にも影響を与えている。
梅堯臣はこの「銅雀硯」の中で、唐代の李賀の詩を踏まえて端溪を批判している。また唐代の韓愈の「毛穎傳」を引き合いに出して、韓愈が陶泓を賞賛するなら、銅雀硯はその兄貴じゃないか?なぜ賞賛しないのだ?と述べている。ついでにいえば、白居易の「長恨歌」を引いて、鴛鴦の瓦は詩文の徒の気分に合うものじゃないと、これもこき下ろしている。

日本においては、中国の古称となっている「唐」であるが、唐の王室はもとは大與安嶺出身の鮮卑族なのである。漢民族王朝である北宋から見れば、遼と同じく異民族の王朝なのである。唐王室の国姓は李姓であるが、李賀は唐王室に連なる出自を誇るところがあった。
また韓愈は「毛穎傳」で、隋唐時代に流行した陶器の硯を「陶泓」という人物に擬人化して物語を創作した。隋王室も唐王室も異民族王朝である。銅雀硯は三国時代の曹操の事績に由来するが、後に子の曹丕が漢室から禅譲をうけて帝位につき「魏」を建国している。これもいうなれば漢民族王朝を継承した、同じ漢民族の国家である。また白居易も、父親の代に漢化しているとはいえ、もとは異民族王朝であった北魏を立てた拓抜氏の流れである。
異民族王朝の硯(=陶泓)から見て、漢民族王朝の硯(=銅雀硯)が兄貴分じゃないか?とわざわざ指摘するのは、時代の後先を踏まえてだけのことではないだろう。北宋は「澶淵之盟」の結果、宋が兄、遼が弟という形式で盟約を結んでいる。おそらくはそのことを皮肉っているのであろう。
また「澶淵(せんえん)之盟」は、異民族に対して兄弟となる盟約であったが、これは漢民族の民族主義的自尊心を傷つけるものであった。通常異民族に対しては親子ですらなく、これに「臣下」の礼をとらせ、朝貢という「恩寵」の形式で交易するのが当たり前、なのである。それが兄弟となったばかりか、遼には毎年絹20万疋・銀10万両を歳幣として贈らなければならなかった。その経済的負担は、実のところ北宋の経済規模からすれば軽微であり、平和による戦費負担の軽減の方が利益が大きい。
しかし漢民族王朝に仕える士大夫の自意識の中では、やはり屈辱感を拭い切れなかったのだろう、それが宋代の詩や文学にしばしば現われる。異民族王朝である、唐の王室の連枝である李賀の詩句を当てこするのも、異民族の軍事国家である遼への反感が暗喩されていると読むことができる。
また白居易の「長恨歌」で歌われているところの「鴛鴦」は、唐の玄宗皇帝と楊貴妃のことである。「鴛鴦」にしない、というのは楊貴妃にのめり込んで亡国を招いた、玄宗を皮肉っている、とも読める。
さらに後漢末(銅雀台を築いたのは曹操で、曹操の代では漢は滅んでいない)の銅雀台の瓦は、唐代の鴛鴦の瓦よりも、「科斗の情」、すなわち文学的見地からみても上である、というのである。言い換えれば、唐代の文学よりも、後漢の文学の方が上、さらにいえば異民族王朝時代の文学よりも、漢民族王朝の文学の方が上、という自負が下敷きになっている、とも読める。むろん、漢も唐も滅んだのであるが、「同じ滅んだにしても文学は.......」というところである。
梅堯臣は、白居易、李賀、韓愈といった、そうそうたる唐の詩人達を引っ張り出して批判や皮肉を加えているのは、欧陽脩が先鞭をつけた後漢〜晋を理想とする古文復古と無関係ではないだろう。梅堯臣はその同志なのである。しかも梅堯臣は、それぞれの唐の詩人を揶揄する程度にも差をつけている。すなわち唐の皇室に連なる李賀は全否定、漢化した異民族の流れである白居易は比較の上で劣っていると言い、韓愈については少し軽く「何かお忘れではありませんか?」というところである。韓愈は佛典の排斥で有名な漢民族主義者であるから、少し遠慮した形跡が感じられる。

北宋初期に古文復古の運動が起きた理由は、ひとつには唐代に完成された韻文形式では、創作の余地があまりに少なかったことがあるだろう。作ったところで、唐の詩人たちの二番煎じは免れないのである。
もうひとつには、当時の北宋を取り巻く時代状況の影響もあったであろう。初期の北宋は、遼や西夏などの、北方異民族の軍事力に絶えず脅かされてきたのである。その時代に生きた士大夫の間には、強烈な漢民族意識が醸成されるが、それも前代の唐の文学形式を容れるのを潔しとしなかった理由のひとつかもしれない。彼らは理想の文学を、漢民族王朝の祖である漢代に求めるのである。
古文復古によって宋代に流行したのが「賦」であるが、これも前漢の司馬相如や、後漢の曹植が得意としたものである。前者には「子虚」、後者には「洛水神」の「賦」がある。宋代の「賦」の最高傑作は、蘇軾の「赤壁賦」であるとされる。「賦」は、「赤壁賦」のために用意された文学形式であるとさえいわれる。以降、これを凌ぐ「賦」は作られていない。「赤壁賦」にはもちろん曹操の事跡がうたわれているが、何かの因果が感じられることである。

ところで北宋士大夫の文章は「唐宋八大家」として、古くから日本でも愛読されていた。しかし今読むと、そのやや狭量な民族主義的臭気が鼻につくことがなくもない。博大な人格者である蘇軾ですらそうである。ただし梅堯臣も蘇軾もその時代のその国の人であり、21世紀の日本の小生などがどうこう言っても仕方ないことである。
日本人としては、北宋時代に書かれた司馬光の「資治通鑑」が、日本の知識人に最も読まれた歴史書であることは忘れてはならないだろう。その史観を支える漢民族主義は、幕末以降の日本人の民族的自意識の形成にもっとも影響を及ぼしたのかもしれない。どうもそのようなフシがある。そして明治以降、西欧と対峙した日本の辿った歴史を想起すれば、異民族である遼や西夏と対峙していた北宋時代の士大夫達の心情も、あるいは理解しやすいのではないだろうか.......................................話が逸れたが、北宋時代の出土硯は、実用性を追求した結果の、簡素で力強い造形美に大きな特徴がある。「機能性を追求すれば形は美しくなる」という、いわゆるモダニズムの理念に先行すること千年、北宋の作硯様式をもって硯の頂点とする見方もある。
小生も宋代の出土硯の持つ、美しいフォルムと堅牢な実用性を愛してやまない。特に龍尾石硯には、今は採石されないような佳材も見られる。千年が経過して今尚、それは非常に使い勝手の良い硯なのである。
欧陽脩と梅堯臣は瓦硯を賞賛しているが、それは宋代の作硯様式を貫く「実用性」を追求する思想の祖形であるとみることができる.........遼や西夏との講和によって、北宋にも平和な時代が訪れた。民間の経済力も増すことで、人夫を使って石の硯材を採石し、遠方から運搬する余裕も生まれたのだろう。欧陽脩や梅堯臣の後輩の蘇軾や米芾等は、やはり瓦硯よりも龍尾石硯や端溪硯に夢中になっている。とはいえ米芾の「硯史」の冒頭にあるように、やはり硯は実用価値を第一とする思想は継承されている。この時代の硯は実用性の追求が”機能美”にまで昇華し、同時に硯材の厳選が、その観賞価値を高めている。北宋の硯を以て頂点となす見方も、根拠のないことではない。また現代では中国よりも、むしろ日本人に宋硯の愛好者が多い。これは簡潔な美しさを求めた北宋の工芸文化が、当時の日本文化に与えた影響の名残なのかもしれない。
竜尾山人印
| 龍尾山人 | 01:21 | - | - |
新春セールのご案内
歙県の「徽商大宅院」は多くの部屋がありますが、このように円卓を半分にしたようなテーブルが、左右の壁につけて置かれているのを目にします。これは徽州の古い習俗で、この家の主人が他郷へ出かけて留守であることを意味します。交易の旅で故郷を不在にしていることが多い徽州商人の家では、ひとつには無事に帰郷して、再び家族全員が円卓にそろうことを祈願するという意味があるということです。またひとつには、屋敷を訪れた客がこのテーブルを見て「主人が留守だから、長居はできないな。」と思わせる、という意味もあるそうです。主人が帰郷すれば、再び半円のテーブルを合わせて、帰郷の祝いをするのです。

新しい加工紙「蝉衣箋」を入荷しました。近日中にリリースをかねて”旧正月”新年セールを予定しています。詳しい日程が決まればまたご連絡いたします。

何卒よろしくお願いいたします。

店主 拝
竜尾山人印
| 龍尾山人 | 01:36 | - | - |
香港藝術博物館「大英博物館蔵〜神禽翼獣」
今日から旧正月であるから新年快楽!

香港での滞在が伸びたおかげで香港藝術博物館の「大英博物館蔵〜神禽翼獣」を見ることが出来た。古今東西の”神禽翼獣”、エジプトやギリシャ、インドや果てはアステカ、また中国や日本から翼を持った神獣の像を集めた面白い展示である。キュレイターの意図としては「そこに関連性を見出してくださいよ。」というところだろう。エジプトの墳墓守護像と中国の唐代の墳墓守護像との対比などはなかなか興味深い。
小生が見たかったエジプトの象牙彫刻があった。ひとつは以下である。
翼を持ち、鳥の頭部を持った神獣が、花輪を挟んで向かい合っている。これを見ると「双獅争珠」という、伝統的な吉祥図案が思い起こされる。以下は徽州の呈坎で観た「双獅争珠」の例である。
二匹の獅子が珠を争っている、という図である。この「双獅争珠」は牌坊の意匠にもたびたび現れる。牌坊に使用できる図案にも、功績によって許認可が必要であったと考えられるが、おそらくはかなり高級な図案が「双獅争珠」である。獅子が龍に変わった「双龍争珠」という図案もある。
中国の獅子や龍と、エジプトの翼獣とどう関係があるのだ?と言われそうであるが、神獣が球状の何者かをはさんで向かい合っている、という構図という意味ではそこに類似性を読み取ることが可能である。

下の図もやはり人頭に獅子の体をしたエジプトの翼神獣であるが、足元をよく見ていただきたい。
キノコのようなものが生えているが、いわゆる”パルメット”と呼ばれる植物文様である。”パルメット”は”ロータス”とともに唐草模様の主要なモチーフとなったと言われているが、これが東へ伝播して”靈芝”になったという説がある。たしかにこの象牙彫刻に刻まれているパルメットは、靈芝の図像によく似ている。
以下は黟県の葉村の古民居の門を飾る煉瓦彫刻であるが、鹿の足元に靈芝が生えている。
”パルメット”が靈芝に似ているかどうか?ということもひとつの類似性であるが、エジプトの神獣の足元からパルメットが生えてきているように、鹿の足元から靈芝が生えている。もとより吉祥図案としては、鹿に靈芝はつきものである。神格化された鹿が麒麟であるという説があるが、靈芝を伴う鹿は神獣に準ずる存在として描かれる。
このパルメット〜靈芝が変化して、いわゆる雲紋、瑞雲、雲気紋となったという説もある。以下は呈坎の宗廟で見られる蛟龍の石刻であるが、二匹の蛟龍が靈芝の格好をした雲気紋の中で戯れている。
この図像に現れる神獣は普通は「蛟(みずち)」あるいは「蛟龍」と呼ばれ、龍の幼生ということになっている。しかしそもそもこの蛟龍というのも、よく見ると龍の親戚というよりは、獅子の親戚なんではないかというような体つきをしている。ともあれ神獣にパルメット、ないし靈芝ないし雲気紋が伴っている点は、何か関連を思わせるところである。
観る人はそこに「関連」を見出すかもしれないが、それを「その通りである。」と記す過去の文献はあるはずもないので、文献資料による論証というのは難しいことではある。しかし香港藝術博物館でもこのような展示が企画されると言うことは、存外その方面の研究も進んでいるのかもしれない。

パルメットが唐草紋様に変化したことや、ギリシャの神殿建築のエンタシスが東洋の寺院建築の様式に伝播したことはよく知られている。しかし西から東へ伝播したのは、それら紋様や建築様式だけではないだろう。シルクロードを経由して、中近東や西アジアから東洋に伝来した文物の一部が、現在の正倉院に保存されている。しかし遠く西方から運ばれたのは、もっぱらモノばかりであったとは考えにくいことである。
遠く運んで最も価値のあるモノというのは、実体のあるモノではなく、新しい知識や進んだ技術である。それは現在でも同様であろう。建築工法や工芸技術と同時に、西方のさまざまな知識や思想が、東洋に流入したと考えなければならない。その中にはギリシャを経由した、古代エジプトの死生観が含まれていた、と考えてみるのも不自然なことではないだろう。そのエジプトの生命観や死生観が中国の神仙思想に影響を与えた、という研究もある。
墨や硯の意匠には、古代中国の神獣や瑞兆をモチーフとした図案がしばしばあらわれる。また墨の製法は、漢方薬の知識に多くを拠っていることがわかっている。漢方薬が体系化した漢代の人々が考えた究極の薬というのは、仙人(=不死)になれる薬なのである。靈芝も昇仙のための高級薬材として扱われていた。この仙人になろうとする死生観の起源を尋ねると、そこに古代エジプトの死生観が見えてくるのである。

古代の墨に松烟や鹿角膠が使われ、黄檗で染めた黄色い紙が作られたのは、あるいは漢方薬の知識が影響しているのではないか?と推察している。道教儀式に使われた紙や墨は、そのまま服用して薬になるものでなければならなかった。明代の羅小華は道教に凝った嘉靖帝の為に、祈祷用の墨を献上している。古くから墨や硯に繰り返し現れる神獣や靈芝などの吉祥図案は、何を求めてのことであったのだろうか?
道教は煎じ詰めれば仙人になることを目標にしている。紙や墨、あるいは硯や筆も、どうやらこの世の用途ばかりに対して使われたのではないのかもしれない。
竜尾山人印
| 龍尾山人 | 01:59 | - | - |
除夕の旺角市場
今回は帰国が午後3時の便だったので、朝から旺角の市場に出かけ、少し買い物をして帰ることにした。22日の今日は、旧暦の大晦日である。
大晦日の旺角市場大晦日を「除夕」という。大抵は親族が集まって食事をするから、料理を用意する家庭の買い出しで、市場は大賑わいであった。大晦日の旺角市場大晦日の旺角市場見ての通りの豚の丸焼きである。皮をパリパリに焼き上げる”脆皮焼肉”で、甘いタレで焼き上げた蜜汁叉焼とともに、宴席には欠かせない。”脆皮焼肉”は広東であればあちらこちらに店があるが、上海あたりではあまり見たことがない。香港では辻辻に”脆皮焼肉”と”蜜汁叉焼”を売る店がある。持ち帰り客がほとんどであるが、ご飯に切ったチャーシュウや焼豚を乗せたものをテイクアウトしたり、あるいは店内で食べることができる店もある。
大晦日の旺角市場夏場の蒸し暑い時期は難しいかもしれないが、冬場の今であれば日本まで持ち帰るのも無理ではない。カットしない方が保存に良いかな?とも考えたが、パリパリと硬い皮と柔らかい肉を一緒にうまくカットするのは、実は難しい。またカットされた一切れ一切れに、皮と肉の赤味、脂身がバランスよく入っていないと美味しくないのである。ここは職人の手練に任せることにした。職人がナタのような厚刃の中華包丁を打ちおろすと、皮ごとサックリと肉が切れる。
小生が買った店では、脆皮焼肉が1斤(500g)で56HKD(560円)、蜜汁叉焼は25HKD(250円)。多少は年末相場なのかもしれないが、この値段は大陸と大差はない感じである。香港は所得格差が激しい都市なので、食料品の価格というのは思いのほか高くは感じない。
大晦日の旺角市場大晦日の旺角市場淡水の魚を売る店では、大きな魚の頭だけを別に売っている。魚の頭は香港でも縁起物で、スープにするのである。写真だとわからないが、切った魚の頭はまだ動いていて、頭だけが飛び跳ねていることもある。なかなか凄惨な光景であるが、魚屋の気合いの入った掛声とともにどんどん売れて行く。
活気があるが殺気立つほどではなく、やはり正月を前にしてか、どことなくなごやか雰囲気がある。地元の人々でごった返しているが、ところどころ旅行者らしき人の姿も見える。小生なんぞのように、お土産に少しだけ買い物をしてゆく外国人に対しても、邪魔扱いせずに親切に応対してくれる。
大晦日の旺角市場大晦日の旺角市場大晦日の旺角市場しかしこの市場、英語はほとんど通じない。普通語もやはりほとんど通じない。小生は広東語はまったくわからないので、量り売りで合計の値段を言われても一体幾らなのかすぐにはわからない。しかしそういうことには店側の方が馴れているのだろう、電卓なりで金額を示してくれるからこまることはない。
大晦日の旺角市場焼豚と香港特有の細麺を少し買って、皮蛋を幾つか買った。日本へ入ってくる皮蛋は、時間が経過しているので、どうしても皮が黒ずんでしまい、黄身も固くなってしまっている。大陸の新鮮なピータンは、皮は半透明にすきとおっていて、黄身も中心がとろけるように柔らかい。上海の自由市場であれば10個で10元、香港でも10個で25HKD程度である。安価な食べ物であるが、新鮮なピータンの味を知ってしまうと、どうしてもこれが食べたくなる。空港でもお土産で売っていることがあるが、古くなっている場合が多い。買うなら市場である。一応お店の人に「新鮮か?」と聞くのであるが、「新鮮だ。」と言うにきまっている。こうしてどんどん売れて行く市場などでは、在庫がそもそもたまらないのである。ピータンはもみ殻と泥付きのものと、泥を落としたものがあるが、泥を落としたものの方が重量は軽くなる。
ただしピータンは割らないように持ち帰る必要がある。多少割れても食べることができるが、早く食べないといけない。割れないようにプラスチック製の安いタッパーなどを買っておいて、それに詰めておけば生存率はかなり高い。
長期に日本を留守にすると、どうしても御土産を買ってゆかないわけにはいかないことがある。高価だがありきたりのお土産を買って帰るより、安価だが重くてかさばるお土産を頑張って持ち帰ったほうが、珍しくて喜ばれることもある。香港でお土産に困ったら、こうした自由市場をぶらついてみるのもいいかもしれない。
竜尾山人印
| 龍尾山人 | 22:50 | - | - |
紫頴筆を使う
上海滞在時、香港人のマイケルに紫頴筆を試しに使ってもらった。彼は枕腕で無造作に細字を書いていたが、書いている字の大きさと筆鋒の先端に注目していただきたい。
紫頴筆の試用紫頴筆の試用紫頴筆は、兎毫でも主に純紫が使われている。兎毫は一般に毛が固く、兎毫を主に使用した筆は硬毫筆に分類される。しかし兎毫は毛の中ほどに強い弾性があるものの、先端は極々柔らかい性質を持っているのである。これは兎毫筆の代表格である、寫卷をお使いの方ならお分かりかと思われる。特に純紫においては、先端部分の柔軟性が顕著である。しかしこの柔らかさというのは、羊毫の”筆頴”すなわち半透明の先端部分とはやや異なり、形状の復元力が非常に強いのである。
また長い純紫ほど、先端の極々微細な部分の長さが長いことになる。この紫頴筆は、5cmという、純紫の採取できる限界の長さの毛を使用している。そしてこの筆の筆鋒は、筆鋒の先端に純紫の毛の先端部分が集中するように作られているのである。結果的に、筆鋒の先端から1.5〜3mmの部分のみを用いて書くと、ほとんど筆先の弾力の感触が無いくらいに、非常に軽く紙面に落筆されるのである。しかし筆を運動させる過程では、点画の終筆から次の起筆の間に、筆鋒が元の鋭利な円錐にまとまろうとする力が極めて強い。柔軟だが、筆鋒が元の形状に戻りにくい羊毫とは、ここが異なる点である。
紫頴筆の試用紫頴筆の試用このような性質の筆は、使用者にとって何を意味するだろうか?これはおそらく、運筆に熟達した者ほど、使い勝手の良い筆なのである。つまりほとんど抵抗を感じないほど軽い落筆ということは、用筆が不安定な初心者が使えば、一定の線を引くことすら難しいのである。無造作に落筆した場合でも、筆の弾力によって一定の高さで筆が安定するような筆があるが、そのような筆とは全く性質が異なる。しかし運筆に熟練し、堅実な用筆に秀でた者であれば、紫頴筆は極めて使いやすい筆であろう。どの方向にも抵抗なく筆が運動し、かつ終筆の収斂が容易な筆などというのは、まさに理想の筆なのである。特に一定の書体で多くの文字を書きたい用途に威力を発揮するだろう。
寫卷から紫毫が先端に持っている柔軟性を、特に抽出したような筆が紫頴筆なのかもしれない。もっぱら弾性の強い筆というのは書きやすい面もあるが、その弾力の特性によって、自在にならない部分も確かにあるものだ。
紫頴筆の試用運筆に熟練していれば、落筆した際に筆鋒のどこまでを紙面に接するべきかを、コンマミリ単位で制御することが出来るものである。その訓練が出来ている人であれば、この紫頴筆を使いこなせるに違いない。幼少のころから、長年にわたって科挙の答案用に小楷を鍛えてきた士大夫達であれば、この筆を重宝したのもわかる気がするのである。また紫頴筆は特に皇室への献上筆に多くの作例が残っているが、御筆に見られる精緻な小楷に習熟した清朝の皇帝達も、このような筆を好んだのであろう。
「筆が書いてくれる」という感覚があることは確かなのであるが、紫頴筆(に限らないが)は熟達者ほど「使いやすい」という感覚を持つのではないだろうか。果たしてマイケルの感想も「不錯(大変良い)」の一言であった。

この紫頴筆については、さらに試験を進めてゆこうと考えている。
竜尾山人印
| 龍尾山人 | 02:17 | - | - |

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